八王子織物の歴史

八王子という地名は今から400年ほど前、小田原の北条氏が現在の元八王子の城山に城を築き、八王子権現を祭って八王子城と名付けたことに由来します。それ以前は「多摩の横山」と呼ばれていました。

古くから多摩川の沿岸では人々が麻や絹の織物を織っていました。万葉集にも
「多摩川にさらす手作りさらさらに なんぞこの児のここだ愛(かな)しき」
とうたわれています。

 

朝鮮半島より高麗の人々が日本に渡来して帰化し、現在の埼玉県の高麗町に定着をします。この人たちが武蔵国を耕し、桑を入れ、蚕を飼い、生糸を紡いで、機を織る技法を教え伝えました。

こうして養蚕や織物が盛んとなった八王子には「桑都(そうと)」という美称がついています。これは鎌倉時代の名僧・西行法師が全国行脚の旅で八王子を通った際に、八王子一帯に桑の葉が美しくたなびいていたことから
「浅川を渡れば富士の影清く 桑の都に青嵐吹く」
とうたい、これが「桑都」の由来であると言われています。

 

1645年に刊行された「毛吹草(けふきぐさ)」には武蔵の特産品として「滝山横山紬縞」の名が見られます。

この時代には八王子十五宿が開設され、毎月4と8のつく日に市場が開かれ、大変な賑わいでありました。4のつく日は横山町、8のつく日は八日町が市日の場所となっていました。桐生などからも職人が移住し、その技術も導入し、八王子織物の知名度が全国的にも高まってきた時代でした。

 

明治時代になり、政府が富国強兵を基本方針とするようになると、輸出の花形商品として生糸産業が取り上げられました。

しかし明治10年代の八王子では、輸入された粗悪な化学染料をむやみに用いたため、品質が低下していました。ここで奮起した仲買商や機業家らが中心となって、染色をはじめとする八王子織物全体の技術向上と品質改善に取り組みました。明治19年に仲買商らが八王子織物組合を結成、翌年には八王子織物染色講習所を開設し、当時の日本の染色の第一人者を招いたのです。

こうして八王子では産地全体で近代化に取り組み、徐々に成果を上げていったのです。

 

大正時代になると八王子は産業革命を迎えます。

大正3年(1914)に第一次世界大戦が勃発し、経済界に戦時好景気がおとずれました。国産力織機の出現も手伝って、八王子でも電力への転換が進みました。それまで織物は山沿いの村で家内工業として作られていましたが、機業家は動力を求めて市街地へと移り住み、労働者は町の大きな機屋へと流れていきました。

八王子は大衆向けの着尺(着物用の織物)、特に男物中心の産地でしたが、服装の変化に合わせて新分野開拓の必要に迫られます。まず婦人物着尺を開発し、大正末期には八王子で初めてネクタイが作られました。

 

昭和初期になると、「多摩結城(たまゆうき)」と名付けられた紋織の織物が完成します。「多摩織」の技術の集大成とも言われ、高く評価を受けました。

昭和12年に日中戦争が始まり、日本は徐々に統制された経済体制に移行していきます。

昭和18年には最低限度の工場に織機を残し、残りを鉄材として供出することになります。これにより廃業を余儀なくされた企業も多数ありました。

そして昭和20年8月2日の八王子空襲により、市街地の9割が焦土と化し、八王子の織物も壊滅的な打撃を受けました。

 

終戦後、政府の復興金融公庫融資を受け、八王子織物は立ち直っていきます。

昭和22年には以前の8割に至るまで、目覚しい復興を遂げました。

繊維関係の統制もすべて撤廃され、加えて戦後の衣料不足から織物の需要が高まり、昭和20年代半ばには、ガチャンと機(はた)を織れば万という金が儲かるという意味で「ガチャ万」と評されるほどの好況期を迎えました。

これを機に更に新商品を研究し、昭和32年には画期的着物と言われた 「紋ウールアンサンブル」を開発し、戦後の八王子織物の最大のヒット商品になりました。

 

八王子織物の現在

現在、八王子織物は八王子で洋服地という要望に応えて、デザイナーやアパレルメーカーと協力して、伝統技術を活かしながら織物を製造しています。

ネクタイを中心に、マフラー・ストールなどのファッション製品の評価は極めて高く、絹製品の伝統工芸品の技術を十二分に活かした商品です。

 

八王子で作られた商品たち、是非一度お手に取っていただけると嬉しいです。

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