会長挨拶~
「そうだ、八王子がある。」
平成28年度より、第八代目ファッション協議会会長を任されております、有限会社オカド染色工業の山口琢磨と申します。
世界的に名立たる国際都市である、日本の首都「東京」。
そこにある我が街八王子は、かつて「桑の都」と呼ばれ、絹(シルク)で栄えた繊維の産地で ありました。その歴史が、だんだんと人々の記憶から薄らいでいくのを残念に思う方々は少な<ないのではないでしょうか。
しかしながら日本において八王子が属する東京は、世界に向けて情報を発信し企画や商社、
そしてデザインに携わる人が国内で一番多く存在する、唯一無二の国際都市であります。それにもかかわらず「東京に繊維加工の産地がある」という事を全国的に上手く伝えられていない、と思っております。
国内の繊維産業は今、「限界集落化しつつある」と言えるでしょう。
高齢化やマーケットの縮小で、加工業者は確実に減少し、昔ながらの織機や編機、染色機など、繊維の機械も激減しております。しかし、近年「たしかな日本のものづくり」が再び注目され、 「製造の日本回帰」が始まっています。
だからこそ、前者が未だ存続し、次の世代の万が多く集まりインフラと情報の利便性が高い 「東京の『八王子』」は、加工の産地としても大きなポテンシャルを秘めていると信じております。
織り、編み、浸染、捺染、整理などさまざまな企業が残る八王子は、全国でも珍しい繊維の複合産地であります。そして都心より小一時間という利便性は、製品に直接触れ、必要な時に実際の「目」で、ものづくりの工程を見る事を可能にします。
都心(urban)から郊外(suburban)へ。郊外から地方の産地へ.
我々「八王子ファッション協議会」は定例会を始め、催事やイベント等を通し、異業種間交流を深める「ものづくりのための場」と考えております。
最近では前述のように、情報都市・東京から各地の繊維産地をつなぐ「ハブ機能」も持ち合わ せられる立地である故に、全国の産地との交流を深める活動も活発に行っております。
当会の会員は段ボールなどの製造をはじめ、デザイナー、催事、企画、小売り、学校と幅広く 非常に多彩です。女性や学生もいらっしゃいます。八王子の繊維企業のみならず、八王子での「もの づくり」に関わるなら、八王子在住にこだわらず、企業や個人もこだわりません。
工場を見せられるうちに残っているうちに。ぜひ、当会を通し「繊維の街、八王子」に触れてみて下さい。
八王子ファッション協議会 会長 山口 琢磨
八王子織物の歴史
八王子という地名は今から400年ほど前、小田原の北条氏が現在の元八王子の城山に城を築き、八王子権現を祭って八王子城と名付けたことに由来します。それ以前は「多摩の横山」と呼ばれていました。
古くから多摩川の沿岸では人々が麻や絹の織物を織っていました。万葉集にも
「多摩川にさらす手作りさらさらに なんぞこの児のここだ愛(かな)しき」
とうたわれています。

養蚕や織物が盛んであった八王子には「桑都(そうと)」という美称がついています。これは鎌倉時代の名僧・西行法師が全国行脚の旅で八王子を通った際に、八王子一帯に桑の葉が美しくたなびいていたことから
とうたい、これが「桑都」の由来であると言われています。
1645年に刊行された「毛吹草(けふきぐさ)」には武蔵の特産品として「滝山横山紬縞」の名が見られます。
この時代には八王子十五宿が開設され、毎月4と8のつく日に市場が開かれ、大変な賑わいでありました。4のつく日は横山町、8のつく日は八日町が市日の場所となっていました。桐生などからも職人が移住し、その技術も導入し、八王子織物の知名度が全国的にも高まってきた時代でした。
明治時代になり、政府が富国強兵を基本方針とするようになると、輸出の花形商品として生糸産業が取り上げられました。

しかし明治10年代の八王子では、輸入された粗悪な化学染料をむやみに用いたため、品質が低下していました。ここで奮起した仲買商や機業家らが中心となって、染色をはじめとする八王子織物全体の技術向上と品質改善に取り組みました。明治19年に仲買商らが八王子織物組合を結成、翌年には八王子織物染色講習所を開設し、当時の日本の染色の第一人者を招いたのです。
こうして八王子では産地全体で近代化に取り組み、徐々に成果を上げていったのです。
大正時代になると八王子は産業革命を迎えます。
大正3年(1914)に第一次世界大戦が勃発し、経済界に戦時好景気がおとずれました。国産力織機の出現も手伝って、八王子でも電力への転換が進みました。それまで織物は山沿いの村で家内工業として作られていましたが、機業家は動力を求めて市街地へと移り住み、労働者は町の大きな機屋へと流れていきました。

八王子は大衆向けの着尺(着物用の織物)、特に男物中心の産地でしたが、服装の変化に合わせて新分野開拓の必要に迫られます。まず婦人物着尺を開発し、大正末期には八王子で初めてネクタイが作られました。
昭和初期になると、「多摩結城(たまゆうき)」と名付けられた紋織の織物が完成します。「多摩織」の技術の集大成とも言われ、高く評価を受けました。
昭和12年に日中戦争が始まり、日本は徐々に統制された経済体制に移行していきます。
昭和18年には最低限度の工場に織機を残し、残りを鉄材として供出することになります。これにより廃業を余儀なくされた企業も多数ありました。
そして昭和20年8月2日の八王子空襲により、市街地の9割が焦土と化し、八王子の織物も壊滅的な打撃を受けました。
終戦後、政府の復興金融公庫融資を受け、八王子織物は立ち直っていきます。
昭和22年には以前の8割に至るまで、目覚しい復興を遂げました。
繊維関係の統制もすべて撤廃され、加えて戦後の衣料不足から織物の需要が高まり、昭和20年代半ばには、ガチャンと機(はた)を織れば万という金が儲かるという意味で「ガチャ万」と評されるほどの好況期を迎えました。
これを機に更に新商品を研究し、昭和32年には画期的着物と言われた 「紋ウールアンサンブル」を開発し、戦後の八王子織物の最大のヒット商品になりました。

八王子織物の現在

八王子ファッション協議会の沿革
1979年 八王子ファッションセンター協議会設立
江戸時代には、3軒に1軒は織物に関わっていると言われた八王子は、明治以降も織物組合を中心とし、技術向上に努め、全国の品評会にて数々の賞を受賞してきました。
また、関東大震災以前は、生糸、織物の海外輸出の中継地点として大いに栄えました。
また、織物技術をベースとして、洋装含めて新たな各種繊維への積極的な取り組みも行い、戦後、ネクタイ生産においては、日本生産の60%を占めるまでになりました。
このように繊維産業において隆盛を誇った織物のまち八王子でしたが、海外製品の流入と日本の高度成長によるファッション業界の急激な変化、国内生産体制の変化、競争の激化だけでなく、70年代のオイルショックの影響も重なり、日本繊維産業の地滑り的な落ち込みの流れとともに、八王子市内の繊維産業業者も大きく減ってきているという状況がありました。
そのような環境下、八王子ファッションセンター協議会は、八王子商工会議所により昭和54年(1979年)6月に衰退していく地元繊維産業の再興のために設立されました。
八王子ファッションセンター

アパレル産業やデザイナーたちと市内の染織業者とのパイプ役を努め、双方に多くの情報を提供するという目的のもと、八王子駅ビルNOW8Fに、八王子ファッションセンターを設けました。
BIG WEST FASHION CONTEST(1985~1991)
八王子ファッションセンター協議会が中心となり、多くの関連機関の後援、協賛によってビッグウェスト・ファッションコンテストが開催されました。


八王子繊維を素材としたデザイン性あふれる作品が一般公募の中から競われ、新しいファッションの情報交換や市民との交流を深めました。
八王子西武8Fコミュニティーホールにて実施。86年には3600の応募があり、一等賞には賞金とパリ旅行が賞品として贈られました。
1991年 八王子ファッション協議会発足
1991年、八王子ファッションセンターの閉鎖及び八王子ファッションセンター協議会の解散に伴い、
八王子ファッションセンター協議会の有志により、1991年4月に八王子ファッション協議会を発足。
1)ファッション都市づくりの推進
2)八王子産地内・外の交流
3)八王子産地の活性化
を目的に、繊維産地である八王子の撚糸・捺染・織物・横編・経編・丸編・整理・縫製等の繊維関係業者を始めデザイナー・小売店・服飾専門学校・企画・流通・アパレル等の八王子近郊及び都内隣県から地域を越え集まり、活動を開始しました。

日本繊維業界疲弊の流れ
バブル崩壊以降、デフレの影響が色濃く、繊維産業の多くは低価格競争に巻き込まれる形で疲弊しました。
メーカーは人件費の安いアジアに生産拠点を移し、国内生産は大きく減少しました。
また、昭和40~50年代に日本国内ネクタイ生産の60%を誇った八王子織物は、クールビズによる負の影響も受けることとなりました。

八王子ファッション協議会の活動
八王子の繊維業界はイッセーミヤケといった国内高級ブランドからイタリア・米国等の海外ブランドへメイドインジャパンの高品位な生地・製品を提供してきました。
ファッション協議会では、八王子の繊維技術の広報のため、各種展覧会への出展や八王子市内イトーヨーカドーでの販売等の活動を実施してきました。
- 八王子ファッション協議会展示会(第1回~第15回)
- 八王子繊維ファッション総合展
- 東京都立産業技術研究センター 産地職人展
- イトーヨーカドー八王子店

現在の八王子ファッション協議会の活動
現在、八王子の養蚕業者は1軒のみとなり、安価な海外製品の流入により、織物業者、編物業者とも工場をもち生産している業者は少なくなりましたが、八王子では今も尚、伝統を守った製品作りにより良質なメイドインジャパン、メイドイントウキョウの製品を作り続けています。
繊維製品を作るには多くの工程と確かな技術が必要です。八王子は長い間、競争の激しいファッション業界からの要望に応え続け、技術を発展させてきました。
海外生産の在り方が見直されつつある現在、他の地域と協力しつつ、日本ファッション業界を下支えし、盛り上げていくために活動しています。